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2006年7月12日 (水)

ANOTHER STORY

隣の席の男の子は、いつだってぼんやりしている。

休み時間も、友達と騒いでいるより、ひとりでぼんやり風に吹かれていることが多い。

授業中も時々うわのそらで、窓の外を眺めている。

何を見てるのかな。空の色? 雲の形? 時折、口元に浮かぶ微笑みは、何かを考えているせい?

私も、なんとなく窓の外に目を向ける。

空って、こんなに大きかったんだ。雲って、こんなにも形を変えるんだ。

見ていて飽きることはない。彼が微笑んでいるのがわかる気がする。だって、ホラ、あの雲の形、ドーナツみたいじゃない? おなかすいてきちゃう。

彼もそんなことを考えているんだろうか。

なんだか隣の席の男の子が、好ましく思えた。



今日も彼はぼんやりしている。

話しかける友達に相槌を打ちながら、窓の外に視線を走らせる。

いつか話しかけてみたいと思いながら、まだ話しかけられずにいるのは、時々彼がものすごく大人なんじゃないかと感じているせい。同じ年の男の子はみんな、子供っぽく感じるけど、なんだか彼は違う。ただぼんやりしているようにも見えるけど、何かほかの人とか違うものを見ているようにも見える。例えば、窓から入ってきた風にふと目を細める瞬間に、このひとは風を見ているんだ、と感じる。本当のところは知らない。訊いてみたい。

ふと、そのとき、彼の後ろ頭に、ちょっぴり寝癖があるのが目に入った。

それを見た瞬間。心の中に、何かが入った。



小さな棘がささっている。

ちくちくと痛む。

ちくちくちくちく。

私は病気ですか?



今日も雲は形を変える。

今日も彼はぼんやりと空を眺めている。

私もつられて空を見る。

今日の雲は重たい灰色で、なんだか気分が暗くなる。帰る頃には、きっと、雨。

雨はいやだなぁ。制服が湿っぽくなるし、気分も憂鬱になる。

あ、今日もドーナツ型の雲。

……違う? ドーナツじゃなくて、あれは。



精一杯の勇気で、放課後、彼の前に立つ。

「キミって、いっつもぼんやりしてるよね」

上ずりそうな声を抑えると、自分でも驚くほど低い声が出た。

そんな私を、きょとんとした顔で見ている彼を見ていたら、なんだかおかしくなってきた。案外、子供っぽい顔をするんだね。いつも横顔を見ていたから、知らなかった。

そんなことを考えたら少し笑うことができて、次の言葉がするすると出てきた。

「あのね、雨が降ってきちゃって」

いつも外見ているから、知っているよね。だけど、指先が震えそうだったから、力を入れて指をさす。

「もし傘、持ってるなら」

彼の視線が指先の方に移っていったから、ますます指先が震えそう。

「駅まで、入れてってくれない?」



彼の傘は小さなビニール傘で、こんなどしゃ降りの日にどうしてこんなお願いをしてしまったのだろうと、今更ながら後悔した。

見上げた彼の横顔は、いつもと違って、なんだか少年のように見える。

戸惑っている? 初めて話したのに、ずうずうしいお願いをされたせいで? でも、嫌がっているわけじゃないと思いたい。だって歩幅を合わせてくれる。困っている? だけど、私が濡れないように、傘をさしかけてくれている。慣れていない? 唇をきゅっと結んで、まっすぐ前だけを見ている。不自然なくらいに。

私は、彼から傘を取り上げた。

「ちゃんとささないと、キミが濡れちゃうよ?」

彼は、左半身ずぶ濡れだった。

なんだか不思議。彼が子犬のような目で私を見るから、私に任せて、って気分になってくる。彼に傘をさしかけながら、私はくだらないことをたくさん話した。

彼は、どこかうわのそらな返事を繰り返しながら、それでも優しい目で私を見てくれるから、私は話し続けていられる。このまま、道がいつまでも続けばいいと思った。

だけど、どんな時間にも終わりがある。

「あ、もう駅」

ため息のように出てしまった言葉。彼も息をついたのがわかった。

「入れてくれてありがと」

声が震えそうになったから、なるべく棒読みでお礼を言った。

少しでも時間を長引かせたくて、ゆっくりと傘をたたんだ。

そして、ゆっくりと傘を返す、と。

彼はすばやくその傘を、私の手に握らせた。彼の手が、私の手を包み込む。

たった今まで、私に任せてなんて思ってた。

だけど、違う。

私は、守られている。

小さな棘が痛み出す。

ちくちくちくちく。

「これ、使ってよ」

声が私を包み込む。

ちくちくちくちく、泣き出しそう。

「でも、キミが…」

「大丈夫、駅からすぐ近くなんだ」

笑顔が私を包み込む。

ちくちく…ズキズキ…ドキドキドキ。

手をぎゅっと握って、その後彼は駆け出した。

私の手に残る、力強さ、ぬくもり。

「ありがとう!」

泣き出しそうな心を抱えて、私は上手に笑えていましたか?

びしゃびしゃに濡れて小さくなっていく彼の後ろ姿を見送りながら、私はありがとうと呟いた。

彼にも、勇気をくれた天使にも。



ドーナツ型の雲は、あれは天使の輪だった。

ドーナツ型の下には、ちいさな体と、そして、羽。



あの日刺さった、小さな棘。

私の中で、確かに芽吹いている。

微かで甘やかな痛みと、ときめきと。

うれしくて振り回して壊してしまった借りた傘と、さっき買ったばかりの真新しい傘を手にして、私はもう、明日話す言葉を探している。

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