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2006年7月12日 (水)

ANOTHER STORY BLACKSIDE3

ある日、吉田佳奈が聴きたいCDがあると話しかけてきた。

よく喋っていたころに話していた、俺も吉田佳奈も好きなバンド。あのころは、そんな小さな共通点がうれしかった。

だけど今は、あまり喋らないようにしていた。

だから何だか、本当に久しぶりに話している。もう忘れたくて、あまり吉田佳奈のことを見ないようにしていた。

気のせいか、また少しきれいになっている。

「じゃあ、今日の帰り、取りに来る?」

俺の家は、吉田佳奈が使う駅のすぐ近くだから、前にも何回かそうやってCDの貸し借りをしていた。だから、何気なく言ったのだが、吉田佳奈は少し浮かない顔をした。そして、窓の外に目を向ける。

外は雨。

「何か約束があるんなら、明日学校に持ってくるけど」

「え? あ、ううん、何もない。早く聴きたいし、今日行くね」

心がない笑顔。

何を考えているの? 甲斐のこと?

軽い気持ちで訊けたらいいのに。まだ割り切れていない。

俺しか気付いていない、ふたりの変化。クラスで噂になっていないってことは、まだふたりはつきあっているわけじゃあない。

だから、もう俺は、吉田佳奈の前で甲斐の名前なんか出したくない。

今は、このまま。

せめて本当の笑顔が見たいと思って、俺は必死でくだらないことを喋った。吉田佳奈の心から、一瞬でも甲斐が消えればいいと願った。

吉田佳奈は俺の話に、顔をくしゃくしゃにして大笑いしながら、俺の腕をバシバシと叩いた。



俺の黒い傘の隣に、吉田佳奈の赤い傘がちょこんと並んでいる。

初めてこうして並んで歩いたのは、いつだったか。

あのころの吉田佳奈は、ただの地味な、でもめちゃめちゃきれいになる可能性を秘めている、と俺が思い込んでいた、女の子だった。俺の気持ちも、友達以上ではあったけど、まだはっきりしたものは何もなくて。

だけど、今は。

たぶん、吉田佳奈が恋をした、あのころに。

恋は伝染する……わけはないけど。

前に並んで帰ったあの日より、俺ははるかにぎこちない。俺だけがぎこちない。

吉田佳奈は前と同じように楽しそうに話している。河本みなみの話や、今日の体育でドジった話、昨日見て面白かったテレビの話、そして、最近雨の日が好きになったこと。

「え? 雨が好きなの? ああ、その傘がかわいいから、とか?」

赤い傘は吉田佳奈に似合っていた。傘をくるくる回しながら笑っている吉田佳奈に、正直、目を奪われていた。

「ううん、あのね。菊池くんだから言っちゃうけど。雨の日にね、甲斐くんと一緒に帰ったの。それから、雨の日が好きになったの」

雨に煙る街。赤い傘の下で目を伏せてはにかむ吉田佳奈。

初めて吉田佳奈の口から出てきた「甲斐」の名前は、耳の中が溶けてしまいそうなほど甘く甘く響いて。

聴きたくなかった。だから、避けていた。

だけど、聴いてしまった。俺は……何を言えばいい?

俺に対して、友達としての好意以上の何もない。かけらほども。

そんなことは、最初からわかっていた。

だけど、わかったからといって、じゃあいいですよあきらめますよというほど、俺たちはまだオトナじゃないだろう。

泣き叫んで地団太を踏むほどコドモでもないけど。

だけど、最後の悪あがきくらいは、していい?

俺は、吉田佳奈の左腕をつかんだ。そして、自分の方に強く引き寄せる。

赤い傘が、吉田佳奈の手からゆっくりと落ちる。手折られた花のように。

「菊池くん?」

困惑した声。

俺はかまわず、吉田佳奈を抱きしめる。

「好きだ」

本当は、ずっと、こうして触れたいと思っていた。そのきゃしゃな体を、自分のものにしたいと。壊してしまうかもしれないほどの強い力で。

心は俺の元になんか、ない。心のない抜け殻。だけど、今、ここにいる、確かな重みと体温を持った人間の体。

シャンプーの匂いも、やわらかい肌も、鼓動も、すべてを抱きしめて。

これから、俺はどうすればいい?

気のいい友達役は、もうごめんだ。

「…あ…」

不意に腕の中で響く、吉田佳奈の声。

この細い腕のどこにそんな力があったんだろうと思うような力で、俺の胸を押して、急に俺の腕の中からは温かさが消える。

まだ俺は現実に戻れなくて、ぼんやりと腕からはがれたいとしいものをながめ、そのいとしいものの見ている先に視線を移した。

……甲斐。

「ハイ、これ」

甲斐は、俺なんか見ていない。まっすぐ吉田佳奈だけを見つめて。赤い傘を吉田佳奈にさしかける。それから、甲斐がさしていた透明な傘も、吉田佳奈に握らせる。

ふたりだけの時が流れている。入り込めない。俺は間抜けな傍観者だ。

だけど。

なんで甲斐が笑っているのか、不思議だった。

どうして笑っていられる? おまえの好きな……女、だろう?

「ありがとう、楽しかった」

「何、言って……」

雨の中、甲斐はきびすを返すと街の中に走っていった。

止まった時間が動き出す。

ゴォゴォと車は走り、人々の笑いさざめく音が聞こえ出して……。

そうだ、俺。

「吉田っ、何やってるんだよ。甲斐のこと追いかけなくていいのか? 行けよ!」

吉田佳奈の背中を押す。

だけど、その背中は震えているだけで動かない、動けない。

「ごめん、俺……こんなつもりじゃ……」

震えた背中がしゃがみこむ。

透明な傘を抱きしめて。

こんなとき、どうしてやればいい?

「甲斐くん……ごめんね……ごめんね……」

嗚咽の中のちいさな声。

謝るのは俺なのに。

突然、こんなことをして。傷つけて。

好きな女の子の笑顔を守ることもできないで、すべてを叩き壊して、失って。

お れ は な に を し て い る ん だ

雨が一段と強くなる。

今の俺にできることは、吉田佳奈が少しでも濡れないように、傘をさしていることだけだった。

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