vol.3 "ONE MORE KISS"4
久しぶりに彼に逢ったのは、受験も終わったあとだった。
少し、痩せたみたい。頬の窪みが、尚更、彼を大人に見せている。あたしのことを見つけると、少し伏し目がちに近寄ってきた。なんだか、元気がない?
「よ、あーや。久しぶり。元気か」
いつもの尚クンは、こんなふうじゃない。もっと弾むように、ビートにのっている感じで。涼しげな眼差しで真っ直ぐあたしを見つめて、あたしをどぎまぎさせるのに。
あたしは、伏せた尚クンの目を覗き込む。尚クンは何気なさを装って、あたしから目をそらす。あたしは、彼の視線を捕らえたくて、一生懸命になる。だってこんなの、尚クンじゃないもの。
「どうしたの? もしかして、テスト、悪かったの?」
尚クンは苦笑する。いつものカラカラした笑いじゃない。湿った、そういう表現がしっくりくるような、そんな笑い。あたしは、知らない尚クンを見ているようで、なんだか怖くって、彼の手を握る。
あ。
初めて握った尚クンの手は、温かくて、優しかった。あたしは、泣きたくなった。
尚クンは、やっと絢音を見てくれる。
その尚クンの目が泣いていて、あたしは吃驚する。ううん、本当はまだ泣いていない。こらえているのだけど。あたしには判る。尚クンは瞳の向こう側で泣いている。背中をトンって押したら、絶対に零れ落ちる。ああ、そんなふうに彼を泣かせる原因は、ひとつしかない。
「なな子、さん、……どうかしたの?」
彼の手が、ぎゅっとあたしの手を強く包み込む。
苦いお薬を飲んだときの、男のひとの顔。眉間に刻まれた皺。噛み締めたくちびる。ああ、間違いない。尚クンにこんな顔をさせられるのは、あのひとしかいない。だとすれば、尚クンの恋は、いったいどうなっちゃったの? 嬉しいのか悲しいのかなんなのか得体の知れない感情があたしの体を駆け上がってきて、あたしは少し混乱する。何より、話してほしい。いったい、どうしたの?
「なな子、つきあってたんだ、みんなに隠して……」
え? 尚クンが何を言っているのか、すぐには理解できなかった。だって、尚クンじゃなくて?
違う人と。つきあって、いたの?
どうして? 尚クンはこんなに優しくて、こんなに温かくて、こんなに素敵で、なにもかもがいいひとなのに。尚クン以上の人なんかいるわけないのに。どうして、別の人なんか。
「俺、どうしていいか、判んないよ。好き、なのに。なな子が幸せならそれでいいって、思ってやりたいのに。俺」
微かに震えている、尚クン。
泣きたいなら、泣けばいいのに。
あのね、絢音は、あなたよりずっと前に、今のあなたと同じことを思っていたよ。今まで、ううん今も、ずっと抱えている想いなの。だから、少しだけ楽になる方法を、知っている。泣いた方が、いい。しゃがみこんで泣いてしまえば、今よりずっと楽になれる。でも、泣けないのね。可哀想な尚クン。尚クン……。
一瞬、自分で、自分が何をしたのか、判らなかった。
あたしは。
精一杯背伸びして、手を伸ばして、彼の頬を両手で包み込んで、自分に引き寄せて、そして描いた。
彼のくちびるに、あたしのくちびるで、一文字。
はじめてのくちづけだった。
あたしはただ、彼を守ってあげたかった。大丈夫、あたしがいるからって、そう伝えたかった。それだけなのに。
……どうしよう。
尚クンは、驚いた顔であたしを見つめる。今は、あのひとのつけた傷さえ忘れてしまったかのように、あたしを見ている。
どうしよう。あたし、あたし。
いたたまれないって、こんな気持ち? ああ、どうしよう。尚クンのこと、見られない。顔を隠して、しゃがみこんでしまう。どうしよう。膝を抱えてしまう。やだ、もう、どうしよう。
「あーや」
彼の声が、あたしを優しく呼ぶ。大好きな甘いハスキーボイスで。
尚クンの気配を感じる。すぐ近くに。今までより、ずっとずっと近くに。そして、温かいものに包まれる。尚クンの息が耳元にかかる。
「ありがと」
ううん、ううん。首を振る。
あなたは、あたしに、いろいろなものをくれた。あたしは、何か返したかった。それだけだもの。
尚クンは、首を振り続けるあたしの髪の毛を、そっとなでてくれる。前よりも、少し伸びた髪の毛を。尚クンの大きな手で、あたしの頭はすっぽり包まれてしまう。これが、あたしの焦げるように望んだ瞬間。ずっとあなたが好きだった。妹なんか、嫌だった。ひとりの女の子として見てほしかった。お願い、ずっと、こうしていて。もうずっと、離れたくないよ。
尚クン。あたしは彼の名を呼び続ける。壊れちゃいそうで、怖いの。夢かもしれない。だったら、お願い、さめないで。
「ごめん、俺、頼りない兄貴だよな。妹にまで心配されて」
……妹。
現実に戻る。あたしは、尚クンの手から、自然に離れていく。尚クンは、照れた瞳であたしを見下ろす。そう、あたしは、妹。それが尚クンの答え……。
あたしは立ち上がって、まだしゃがんだままの尚クンを見下ろした。
「元気、でたか? ホント、こんな情けない兄ちゃんなんか、持ちたくないよ」
どうして自分が笑えているのか、不思議だった。本当に悲しいとき、人は笑っちゃうのかもしれない。あたしは、とびきりの笑顔を尚クンに向ける。
「絢音の……妹の、いっちばん最初のキス、だったんだぞ。尚クン、運がいいよ。絶対、次はいいひと見つかるよ、なな子さん、よりさ」
「俺だって最初のキスだったんだぞ、おまえもいいやつ見つかるよ」
尚クンは、腰の辺りをパンパン払いながら立ち上がって、笑顔を見せる。ふたりでくすくす笑いを重ねる。
涙なんか、出てこないよ。絢音の、はじめての失恋。今、思うのは。尚クンを好きになってよかったって、それだけ。
背筋をピンと伸ばして見上げるあたしの頭を、尚クンはぐしゃぐしゃとなでた。いつものように。そう、いつものようにしていて。尚クンの目。尚クンのくちびる。忘れない。忘れない。
あ。
尚クンの中に、急に引き込まれる。苦しいくらいの抱擁。
「ごめん、俺」
謝ることなんか、ひとつもないのに。だけどそうやってされていると、涙が。
あたしは、声を上げて泣く。
泣きたくなんか、なかったのに。ずるいよ、こんなのひどいよ、尚クン、こんなふうに謝るなんて、泣かせるなんて。どうして、どうしてなの? 尚クン。謝ってなんか、ほしくない。そんなのってずるい。
わあわあ声を上げて泣いていると、自分が軽くなっていくような気がする。尚クンに全部任せて泣いているのが、とても気持ちいい。ずるいよってつぶやきながら、あたしは彼の匂いに包まれて穏やかな気持ちになっていく。尚クンも泣いているのかな? 妹の前じゃあ泣けないかな? 顔が見えないから、判らないや。でも、泣いていいよ。一緒に泣けば、きっと楽になる。
こうやって、全部吐き出しちゃえば、明日からはきちんと妹になれるかな。最初は少しつらいかもしれないけど、ゆっくりと、時間をかけて。いつだって、近くにいるから。あなたと、あたしは。恋ではないけれど。
「ねえ、尚クン。あたし、あしたからちゃんといい妹になるね」
尚クンをそっと見上げる。
尚クンの目は微笑んでいて、優しく頷いている。俺もちゃんといいお兄ちゃんになるよって。だから。
今だけは、わがまま言って甘えてもいい?
わがままっていっても、たいしたことじゃあないの。きいてくれる?
――― ONE MORE KISS TO ME ―――
vol.3 "ONE MORE KISS" FIN
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