尚人が来た。酔っていた。
尚人がこんなに酔っているところを、俺は初めて見た気がする。体がでかいくせに、尚人は刺激の強いものが苦手で、酒もほとんど飲まない。
「おまえ、そんなに飲めたのか」
「たまには飲むよ。いつもいつもやってらんねーよ。冗談じゃねーよな」
どうでもいい、投げやりな口調。
もしかして、こいつも失恋? まさか、こいつが失恋なんて。あ、夏川カナコ。彼女と何かあったのか。あんなに静かに言葉を交わしていた、ふたりが。
「何も言わないんだな。そうだよな、おまえってそういうやつだよ。タクのことだって、おまえ何も言わなかったんだろ。桃瀬、可哀想だと思わないのか。あいつ、おまえのことずっと好きだったの、おまえだって知ってるだろ。なんで今、放っておくんだよ。どうしてタクに何も言わないんだよ。どうして俺にも何も言わないんだよ」
呂律が回ってなくて、しょうがない。
それにしても、尚人は何にそんなに苛立っているのだろう。俺に対しては、ただわがままを言っているに過ぎない。長いつきあいだ、それくらいはわかる。
タクに対して?
タクとだって長いつきあいだ。本人に言えばいい。あ、本人のことを殴ったんだっけ。でも、どうして尚人がこんなにタクと桃瀬のことにこだわって荒れるんだろう。
「そんなに、タクと桃瀬のことが気に入らないのかよ」
「あいつ、桃瀬、何も言わないのかよ。ノリになら話してるんじゃないのか」
「言わないよ。タクだってそうだし。俺、何も知らないよ。それに、おまえ、何なんだよ。俺に何言えって言うんだよ。俺は、あいつらのこと詮索するより、おまえがそんなになってる訳を知りたいね」
尚人は、急に酔いが醒めたような、驚いた顔で、俺を見る。俺が何も知らないって、そんなに不自然なことなのか。俺に何もかもを知っていてほしかったのか。そしたら俺は尚人に、何か声をかけたり、励ましたり、あるいは怒ったり慰めたり、できたっていうのか。何なんだ、判んねぇよ、俺。
困惑している俺に、尚人は言った。
「何でもないよ。悪かったな、変なこと言って」
更に困惑する俺に、尚人も困った顔をする。
「タクも桃瀬も言わないなら、俺だって言えないんだよ」
「つまり、おまえら3人に何かあったってこと?」
「俺は何にもないよ。何でもない。悪かったな、ホント」
尚人は、勝手に話を切ってしまうと、俺から目をそらす。そのまま、部屋の隅に積んであったCDをあさっていた。
何か、音楽がほしい。
昔は、ハードなロックが好きだったけど、今はそれよりもやさしい音楽がほしい。心地よく感じるリズムが。
どうしてこんなにも弱っているんだろう。自暴自棄な尚人。今もきっと傷を残したままのタク、桃瀬。俺が傷つけた愛穂。そして、俺。
すべてを包み込んでくれるようなやさしいものが。
俺たちには必要だ。
どういうわけか、毎日のように夏川カナコに逢っているっていうことを、尚人には言えなかった。
ひとことも、ことばを交わしたこともないのに、俺は何だか、彼女にいちばん判ってもらっている気がしている。シンパシーを感じている。そう、あの、思いっきり走ったあの日から。その気持ちを、絶対に誰にも悟られたくない。
逢っている、とは言わないか。偶然、すれ違っているだけ。
だけど、逢っている、ような気持ちでいる。
同士に、逢っている。
走っているときは空っぽなのに、彼女と逢う瞬間だけは何かが違う。今日も走っているんだという連帯感。彼女を見かけると、ほっとする。
毎日のように走って、毎日のように逢っているから、いろいろなことを判ってきた。たぶん、住まいは俺より川下の方だ。いつも同じ橋のところで引き返す。その橋の下の水飲み場で、少しだけ水を飲んでいく。
どうして彼女は、こんなにも熱心に走るんだろう。いったい、いつから。俺よりも、ずっとずっと長い距離を走り続けている。
だけど、彼女は毅然としている。声をかけることはできない。静かに走り続けてほしい。
こんなにもシンパシーを感じているのに、声さえ知らない。
まだ、俺の携帯電話は、壊れたままだ。
。。。。。
あれから、もう1ヶ月近く経った。
毎日のように走っている俺の顔も絵でもすっかり日に焼けて、真っ黒になっていた。
尚人が、俺のことを健康的だと笑った。見た目だけは。心は不健康だ。
電話もメールも通じない俺に、愛穂は手紙をくれた。見慣れたピンク色の封筒、小さな丸い文字。
俺は封を切れなかった。でも捨てることもできなくて、引き出しの奥底深くにしまいこんだ。
開けることが怖かった。
ちゃんと謝ればいいのに。ごめん、俺が悪かった、と。やり捨てたと恨まれた方がいいのだろうか。あの子は恨むような子じゃない。逃げている俺なのに、それさえ自分のせいだと責めているかもしれない。
どうして俺は、自分の弱さを認められないんだ。なな子と別れたとき、星野を泣かせたとき、自分の弱さを思い知ったはずじゃないのか。
そういえば、俺がなな子と星野の間をフラフラとしていたとき、俺はなな子に星野のことを聞かれた。静かな調子で、あいつ、「星野さんが、好きね」と言った。どうして、そんな言い方をするんだろう。あのときの俺には、選ぶなんてできなかった。あたしのこと好き?って聞いてくれれば、すぐに答えられたのに。どうして、あんな聞き方を。なな子は、気付いていたのか、俺の本当の気持ちに。或いは、お互いに嘘をつき続けることに疲れきっていたか。とにかく、そうやって黙っていた俺から、なな子は静かに離れていった。見えなくなったあとも、俺は呆然としていた。
あのとき、一部始終を、愛穂に見られていた。
俺の腕に、黙って腕を絡めて歩き出す、愛穂。あのときも、夏だった。
あの子は、俺を救ってくれた。なのにどうして。俺は、あの女の子が傷ついたときに、あんなことをしてしまったんだ。そして今も。どうして向かい合うことができないんだ。どうして逃げているんだ。
いたたまれなくなって、俺は外に飛び出す。ひたすら、走る。
目の前が、少し、にじんだ。
桃瀬に、ばったり逢った。
少し、痩せていた。だけど瞳が、キラキラと輝いていた。
「やだ、ノリ。どうしたの、こんなに真っ黒に日焼けして」
からからと豪快に笑う桃瀬は、タクのことをもう忘れてしまったかのように見える。でも、本当のところは判らない。心の中の傷なんて、きっと誰にも覗けない。本人さえ。
「桃瀬、何かいいことあったのか」
「どうして?」
「目がキラキラしてる」
桃瀬は、ますます笑う。桃瀬の笑顔は、俺をほっとさせる。久しぶりに、自分の頬が緩んでいくのを感じた。
「よかった、笑ってくれたね。磯島が心配してたんだよ、ノリがワイルドになったって」
なんていう心配の仕方だよ。
憮然とした俺を見て、桃瀬は笑って、そのあとちょっとだけ照れた顔を見せた。
「ノリ、あのね、あたし素敵な人に出逢っちゃった」
「へえ、よかったな」
「ありがと。ノリはいっつもやさしいね。ごめんね、本当」
俺がやさしい? 嘘だろ、そんな。
赤いTシャツの桃瀬が遠ざかっていくのを、ずっと見ていた。
。。。。。
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