NO WOMAN NO CRY 15
今日こそ愛穂に謝ろう。そう思ったのは何度目だろうか。でも、今度こそは。
自分を勇気づけるために、今日も走り出す。思い切り走って、少しリラックスしたら、きっと言える。そのためにはどれくらい走ったらいいんだろう。だけど、逃げてばかりもいられない。だから、今日こそは。
走る、走る、走る。
走ると景色が飛んでゆく。
そんなことに気がついたのはいつだったか。弱っているときには、どういうわけかいろいろな発見をする。あたりまえのことに気付いて、それが心に響いてくる。
ぐんぐん走ると、夏川カナコがいた。いつもの橋の下、いつもの場所で。上を向いた蛇口から、水が勢いよく噴き上げている。俺は、走る速度を少しずつ緩めていく。夏川カナコは、紅い唇を水に近づけていく。俺はついには足を止めて、それを見ていた。
カクン、と、急に夏川カナコは首をおとした。頬も耳も長い髪の毛も、噴き上げた水を被っていく。何か、あったのか。一、二歩足を進めると、夏川カナコの声が、かすかに聞こえた。
「……かや……」
何を?
夏川カナコは、水浸しのまま、今度ははっきりと言った。バカヤロウ。体を支えている手が震えている。
少しして、顔を上げた。ぼーっと見ている俺に気付く。俺は、少しの気まずさも感じていなかったし、彼女も平然と俺を見ている。目が真っ赤で、俺はこのとき初めて、頬を濡らしているのはこの水だけじゃないことに気付いた。
「水……止めたほうがいいよ」
俺の口から、緊張感のない言葉が漏れた。彼女を俺をキッと睨むと、水を止めて走り出した。
俺は慌てて彼女を追って走る。今、追いかけなければ、もう二度と逢えない。そんな気がした。彼女の、水を含んだ髪の毛が重たげに揺れていた。着ているTシャツにあたるたび、そこが少し透けてゆく。俺は、何だか悲しい気持ちで、彼女を追いかけていた。
やがて彼女は、川沿いから住宅街の方へと曲がっていった。追いかけて曲がると、マンションの前に、夏川カナコは立っていた。俺を待って? 彼女はマンションの中に入り、階段を上がってゆく。俺は、そのあとをついていった。ドアの前で、彼女は振り向いて、ドアを開けてくれた。俺は彼女に続いて、彼女の部屋に入った。
大きな窓からは、西日が溢れていた。圧倒されているうちに、夏川カナコはバスルームに消えていた。シャワーの音がする。
俺は、急に我にかえる。何をしているんだ? なんか、ヤバイ?
所在無く俺は、床に座り込む。放り出されていたダイレクトメールを見て、彼女の名前が「夏川花南子」であることを知った。どうして俺はついてきたのだろう。そうするのが当然のように。話したこともない、名前さえ今知ったような女の家に。
だけど、この部屋はなんだか懐かしい。西日のさす大きな窓。ほかのマンションの隙間から、きっとこの時間だけ光が溢れ出すのだろう。小さなキッチンに小さなテーブルと椅子。何もない居間。ドアの向こうには寝室があるのだろうか。女の人の匂いがする。今まで知っているどの女よりも殺風景な部屋なのに、紛れもなく女の部屋だ。
夏川花南子は、さっぱりと着替えて出てきた。冷蔵庫からウーロン茶の缶を出して、プルタブを開ける。一口、二口飲むと、俺に近づき、缶をくれた。彼女が飲んだのと同じ場所から、俺はそれを飲んだ。冷たくて、旨かった。
「夏川、花南子さんって、いうんだね」
彼女は、興味なさそうにうなずいた。
西日に染まった彼女の頬は、今まで見た何よりも綺麗に見えた。彼女は、目を細めて窓の外を見ていた。
「尚人……磯島尚人、知ってるだろ」
彼女は、ぴくりとも動かなかった。それは、肯定のように見えた。ただ、それについて触れてほしくないのだろう。俺は黙った。そして、見えない糸に操られたかのように、俺は立ち上がって彼女の肩を抱いた。思っていたよりも彼女は小さくて、その肩は細かった。
不意にあのうたを思い出した。
「ボブ・マーリィって、知ってる?」
肩を静かに押して、俺は彼女の肩を抱いたまま、彼女を床に座らせた。まだ髪の毛が湿っている。シャンプーの匂いがする。
「『LIVE!』って、有名なアルバムがあるんだけどさ」
彼女に、何か、を伝えたい。何を伝えればいいのか、わからない。でも、何か、を。俺は焦っていた。言葉をつなげることに必死になる。
「そのなかに、やっぱり有名な曲で、『NO WOMAN NO CRY』っていうのがあるんだ。すごくいい歌なんだ。今、それを思い出した」
彼女が俺を見てコクンと頷くのを見て、俺は少しほっとした。彼女がこどものように頼りなげに見えたので、俺は肩を抱く手を少し強めた。彼女は温かくて、気持ちよかった。
窓から風が吹き込んでくる。夏の終わりが近づいてきているのを思い出させる。彼女の髪の毛が、かすかに風に揺れる。もう、話す言葉は何もいらない。遠くで、工事をしている音が聞こえる。時々、車の通る音がする。音楽はいらない。心がしんとしていた。
太陽が、傾いていく。日が沈んでいく速度は、どうしてこんなにも早いのだろう。いつしか俺は、彼女の髪の毛を撫でていた。彼女は、太陽が沈んでいくように、俺の肩に身を預けていた。
なんて愛しいのだろう。
話す言葉も何もないというのに。彼女のことなど、何も知らないのに。いや、こういうときに、知っていることなど何の役にもたたない。例えば彼女の年を知っていたとして、或いは好きな色や生まれた場所や電話番号や誕生日やそんないろいろを知っていたとして、今このときに何が役に立つんだろう。そんなものひとつも知らなくても、俺はここにいるし、彼女は俺の隣にいる。今まで、無駄なものばかりを身につけていた。本当は、こんなにもシンプルなものなのだろう。
俺は、彼女に体重を預けてゆく。
横になった彼女の髪の毛が少し広がって、走っている彼女とは違って見えた。彼女を見つめると、彼女の瞳は微笑んでいた。
一瞬、やわらかな残光が俺たちを撫でて、音もなく消えていった。
俺は、かたい床の上で彼女を抱き、彼女に抱かれた。彼女の瞳はずっと微笑んでいて、俺を幸福にさせた。彼女も、きっと幸せだったと思う。お互いに、幸福を分かち合っていたような気がする。
確かにあのとき、なにかを共有していた。
それから河川敷で、彼女を見かけなくなった。
彼女、どうしているのだろう。懐かしい初恋のように、甘くせつなく思い出す。
あの日、俺は確かに、彼女を愛していた。たぶん、誰よりも、きっと。
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