※本日は創作物です
午前4時。ぱっちり目覚める。心がざわざわする。じっとしてられない。
頭に鳴り響くのは、あれはなんて言ったっけ、昨日観たDVDでかかっていた曲。
ジョゼと虎と魚たち―――のあのうた。僕が旅に出る理由は、って。
あのうた。
心がざわざわする。
―――そうだ。旅に出よう。
そうと決めたから、頭をしゃっきりさせるのに、バスタブに湯をためた。
いつもなら、まだ夢の中。
今日は何故だか、風呂の中。
僕は頭のてっぺんまでぶくぶくと潜った。
旅に出るって、どこに行く? そうだな、ニューヨークまでひとっ飛び。
―――なんて、できるわけがない。日帰りだよ、日帰り。
日帰りできて、適度に遠くて、のんびりできるところ。
ぶくぶくぶく……ぷはっ。
のぼせてきた。
とりあえず、シャンプーでもしよう。
いつものトーストとコーヒーの朝食さえ、何だか違って見える。
今日は僕の夏休み。
かばんに音だけ詰め込んで。
カイシャには、とびきり具合悪い声で電話した。
心配してくれたカイシャの皆さん、ゴメンナサイ。僕はこれから旅に出ます。
病院にいることになってる僕が、今立っているのは、長距離バスのステーション。
往復の乗車券と、ジンジャーエールのボトルを握り締めて、出かける先は、あのドラマで有名な、あの場所へ。
っていっても、目的なんかあったわけじゃないんだ。
ぶつぶつとつぶやきながら歩く僕の肩に、リュックの紐が重く食い込んでくる。
何にもない贅沢。
だけど、ホントになーんもないんだ。見渡す限りの畑。時々の民家。ホントにこっちでいいのか? 看板見て進んだはずだけど。てゆーか、5kmって実は遠いのか? 駅前のレンタサイクルの店の前で、1時間200円ぽっちにひるんだ自分が恨めしい。道もわからず、7月のお日様に照らされて、汗を拭き拭き歩く道。
道端には花。ここはラベンダーしか咲いてないのかと思ったら、そうでもないのな。どれがラベンダーなのかは知らないけど、アレはどう見てもひまわりだ。それにコレはどう見てもただの雑草だ。たぶんラベンダーなんか1本もない。
イメージって怖いな。
まぁいいけど。花を見に来たわけでもないし。
てんとう虫が飛んできて、僕の左胸に止まる。
自然のブローチ、か。いらねぇよ。ふっと息を吹きかけて飛ばす。
青々とした畑を渡ってくる風は、その、なんていうか、肥料のかおりが―――つまりハイセツブツのにおいが―――していて。
僕はなんでこんな道を歩いているんだろう?
たったひとり、地図も持たないで。
iPodの充電が切れてしまう。
ちぇっ……ヘッドホンをはずして、首にかける。
鳥の声、虫の声、草葉の擦れ合う音。自然の奏でるオーケストラ。
ふっと力が抜ける。
見上げた夏の空、うろこ雲。
視線を落とすと、小さなバッタ。
右を向けば、もつれ合って飛んでくちょうちょ。
左下には、四つ葉のクローバー。
って。珍しいよな? 幸運を呼ぶんだよな? 手折って、財布に挟み込む。
行こうと思ってる公園まで、あと2km。
もう3kmも歩いてきたのか。
こんなふうに歩くのも、久しぶりだ。
てゆーか、腹減った……
こんな何もないところに、飯食う場所なんてあるのか? コンビニさえないのに。
だけどあった。
だだっぴろい公園の隣、ちょっとイカしたカフェ風の造りの店。
感謝、感謝。フライドポテトが熱すぎて口の中火傷しちまったけど、感謝。
大きく口を開けて、分厚いハンバーガーに齧り付く。
刻んだピクルスがぽろぽろこぼれ落ちる。マスタードが口の横にはみ出して、くっつく。
君がいたら、笑うんだろうな……
僕より大きな口を開けて齧り付いて笑いかける、君の姿が目の前に浮かんで、消えた。
君はいない。
いつからだろう。君は笑わなくなっていたよね。
一緒にいることに慣れすぎて、大切なのに、大切にしなくなっていた。いつだって君は僕を許してくれていたから。
君の笑顔、好きだったのに。
最後の泣き顔だけが頭に焼き付いている。
駅まで戻る道は、行く道よりも短く感じる。だけど、確実に、足にダメージが来てる。
そのせいか、行く道よりもいろいろなことを考えてしまう。
いろいろ……幼いころ、眠るときに母が聞かせてくれていた「ねむねむさん」の話とか、小学生のときに作った「秘密基地」のこととか、プールの帰りに食べたオレンジシャーベットで腹を下したこととか、くだらないことばかり。
だけど、こんなことずっと忘れていた。
忙しいって、毎日眉間に皺を寄せて、過ごしていた。
僕も笑わなくなっていた。
こどものころ、毎日笑っていた。
君といた僕、毎日笑っていた。
どうしてこんなカンタンなことを忘れていたんだろう。できなくなっていたんだろう。
空を見上げる。
ああ、雨が降りそうだ。
駅に着くころには、ぽつり、ぽつり、雨が降っていた。雨を避けて入ったカフェで、ぼんやりと、温かいコーヒーを口に運ぶ。
贅沢な時間の使い方。
いつもなら資料をまとめているころか、急な打ち合わせに奔走しているころか。
全部忘れて、のんびり。
土産でも買っていこうか? いや、具合が悪いことになっているんだった。日に焼けてたらまずいかな。まあ、いいや。そんなこともあるだろう。
帰りのバスまで、あと30分。
君の気持ちはわからない。
連絡が途切れて、どれくらい経つのだろう。
ホントにもう逢えないのかな? あのマンション、あのドアの前、今も小さな君が震えて泣いているような気がする。
心がざわざわする。
君は今、どこで何をしている?
帰りのバスは、行きよりもスカスカだった。
うとうとと眠ったら、君の夢を見た。
今日けっきょく見ることのなかったラベンダー畑の真ん中で、君は昔のように笑っていた。
起きた後、君にメールを送ろうと思った、けど、送らなかった。
君には直接、逢いに行こう。
財布に挟んだ四つ葉のクローバー、君にお土産だよって渡したら、君は笑ってくれるかな?
僕たちの住む街まで、あと30分。
僕は君の笑顔のことだけを考えて、バスに揺られている。
Fin
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